2022年10月31日(月)
⑭番の謎の巻き
一昨日、宇都宮のファンターネがやってきた!公演から
戻りました。
それはそれは楽しい公演でした。
皆様ありがとうございました!
帰りの新幹線の出発までに時間があり、一人で宇都宮駅中の立ち食いカウンターのおソバ屋さんに行きましたとさ。
きつねソバ。
店外の自販機で買った食券をカウンターで渡したところ真面目そうな店員さんから番号札⑭番を渡されまして、呼ばれるのを待ちました。
「⑭番さ~~ん」ソバを受け取りに。
美味しくいただいていたところ、次のお客様ご来店だよ。
やっぱり⑭番の札を渡されたらしく「⑭番さ~~ん」と呼ばれソバを受け取りに。
僕と同じ番号だったなぁ。
などと考えながらソバを食べ続ける・・・。
その後、見てたら結局、同じようにずっとご来店の方々には同じ⑭番の札が渡され、行ったり来たりで大活躍だった。
店内で「⑭番さ~ん」が呼ばれるのを僕はきつねソバを食べながら結局5回聞きましたとさ。
ま、どうということではないんだけど、他に番号もあるだろに。なんでまた。⑭番。
ゲン担ぎかいな?
あのお店のラッキーナンバーかしらん。
そう言えば、僕はこの頃はあんまり考えなくなったけど、ジムのロッカー番号を⑯番に決めていた頃があったっけ。
ロッカー番号⑯番を使った日に初めて番組に歌が採用されたんだよね。
⑯番を使うと良い事が~。そりゃあ嬉しかったもん。
P・S
渋谷のハチ公象の顔が笑って見えたらきっとよい事がありますよ。
(多分)知らんけど。
2022年10月24日(月)の午後9時半です。
この頃日記、書くのもう2年ぶりくらいかも。またどうぞ宜しくね。
あ、言っておくけど、たいしたことは書かないからね~~。てへへ。
昨日の夜遅く、神戸と和歌山のファンターネ!がやってきた公演から戻りました。
関空より羽田へ。
羽田から深夜タクシーに乗ったのはいつぶりかなぁ。いやぁ久々だった。
あつこお姉さんやきよこお姉さんとの公演内容はとても楽しく、
有意義。この3人は勿論初めて。リハーサルをたくさんしながら
こういう歌い方するとこういうふうに反応してくださるのですねと、勉強になりました!!
あつこお姉さんの歌声は本当に優しく可愛い歌声なのです。テレビと同じだね。
そこいくと坂田おさむの声はどちらかというと、ハスキー(笑)。破れ傘系とも言えるかもな。
いわゆる美声では絶対ないのは知ってるし。ふん。
なるべく彼女の歌声に合わせたソフト路線をと思うのですが、どうだったんだろうかのう。
まあ、どちらにしろ、一番大事なのは「楽曲のイメージを最大限に表せる」ようにというスタンスだわね。
深夜帰宅して、缶チューハイを飲みつつ、「鎌倉殿の13人」の録画を観たよ。
和田殿がなんだか可哀そうなことになっていくのだね。
そう言えば、ああいうかんじの友達、僕にもいたよ。
良い奴だった。
小学3年の時、ソロバン学校に一緒に通ったんだ。足の速い男の子で
いつもいつも1等賞をとっていたよ。ある日早く走る走り方を教えてもらったんだ。
なんと次の運動会で僕は彼を抜き、1等賞を取ったんだ。喜んでくれるかと思ったが
それ以来彼はなんだかよそよそしくなったんだ。
人生って難しいのかもしらんと初めて思った頃だね。10歳頃かぁ。もう半世紀以上も前の話。
2021年1月11日(月・祝)
本日、成人された皆様誠におめでとうございます。
大人の仲間入りですね。ようこそ!!待ってましたよ!!
ささ、みんなで、よい社会をつくりましょ。(表現がぼんやりとしてるけど、きわめて真っ当な言葉ですよね。エヘ)
あっという間に、お正月もおしまい。
これと言って、それらしいこともあまりなく・・。
(お雑煮はお餅2ケ・七草がゆもたべました。近所の神社に初詣行きました←それで十分なのでは!)
正直、コロナを引きずっての地味地味お正月でした。勿論北海道の帰省なしね。(母さんごめんね)
緊急事態宣言ですって。(汗)
昨年の4月のは、かなりインパクトがあったけれど。
それでも、今日この窓から見るかぎり、時々パラパラと学生さん?の自転車が通るくらい。
いつもの交通量の半分以下かな。いやもっと少ないかも。
見る限り、ちゃんとみなさん自重されている気配であります。う~偉いなぁ。
しかし、まあ、「なんでこんなことに!」・・・って、言ってもしかたないけど。
もう、世界中でこの「なんでこんなことに!」のフレーズは飽きるほどに
使われた事でしょう。
医学の心得もないし、科学者でもないし、疫病の知識もないし・・・。
あ~あ。どうしたらこういう時、人の役に立てるのだろう。(これは本心)
僕は歌を作って歌うだけで本当に良いのでしょうか?それがとても心配です。
何を信じて、どうして行くのが一番正しいのかなんて、ちっともわからない。
今のところ「大きな声」の人の言う事を聞くしかないんだなぁ。とっても残念だけど。
僕は、今、68歳。なぬ?!
世の中的には完全ジジイじゃありませんか。いえ世界的にもジジイ。(自虐もここまでくると笑うのみ)
どひゃ~~。そして図々しく(大汗)時々歌のお兄さんを名乗ったりしてる。
ゴゴゴメンナサイ!許してね。なるべく『そのように』頑張り、振る舞うようにするからぁ~。(先に謝る)
子供の頃考えた68歳ってさ、いろんな知識があってさ、酸いも甘いもかぎ分けちゃってさ、何か事が起こると「あ~それはね、これこれこういうことなんじゃよ~。ちみ(君)ぃ~!焦ってはならんぞぉ~。ハッハッハ」
な~んて、少しゆっくり目に言葉を噛み締め、斜め45度を見てるように見せかけ、語る姿が目に浮かんだものさ。
そして、そんな人の言う事は、聞こうとも思わなかったし、ズレまくってて、哀れにも思えたもんさ。あ~アホらし。
しか~~し、BUT、しか~し。
実際その年齢になってみるとですね・・・・こいつ!あ~わたしのことですからね!!
やっぱ・・・だいたい当たってる・・・。(涙)
知識なんてスマホやパソコン調べるので十分!!
言う事もだいたいズレてる。
近くを見るのに絶対メガネがいる。(必須)
メガネ忘れたときは見えてるふりをする。
小さい文字のメニューは見えなくて面倒だから、お勧めを聞いて「それ!お願いします」にする。
ま、こんな感じ。
やっぱり良いところあんまり(ほとんど)無いんだよね。とても残念だけど。
ただ、ただね!(これから本題)年齢を重ねると、なんとなく、なんとなくね、このままじゃまずい状況なのでは?とか、こっちの水は甘そうだが危ないのではとか・・・。この、「なんとなく」の「感」は働くような気がするんだよ。
ま、それが外れた場合、爽やかに笑って(これ大事)頭を掻くようにするけどね。(笑)
さあ、さあ、皆様にとっても僕にとっても良い一年になりますように!!
←これはお願い当たってくださいっ!!
11月30日(月)
コロナ禍の中、万難を排しつつ、幸手市で11月28日(土)みんなのうたコンサートが開催されました。
嬉しくて、前日はなかなか眠れませんでした。これホントだよ。
子供の遠足の前の日みたいだったよ。
テツトモさんやユカイさんも同じような事リハーサルの時言ってました。
やっぱり歌を歌う者として、直接みなさんの前で歌えるというのは
いつもなら当たり前だったものが、そうではない状況に置かれて、なおさらに
その有難さに気付くのでした。本当に嬉しかったのです。
朝日新聞の取材記事(ヤフーニュースとかも)が29日(日)に出て
いろんな方々から「読んだよ」ってメールやお電話をいただきました。
ありがとうございました。
そして、みなさんの記事への反応も、(ツイッターとか)とても良く書いて下さって有難かったです。
本当にどうもありがとう!!
自分の過去のお話ですから、その時の記憶やら、どうしてそう思ったのかとか
今の自分と、かなり乖離があったりして誤解を受けるかもしれないと、とても心配でしたが
本当に正確に記者の方(滝沢さん)は書いて下さいました。
ほら、よく、そんなつもりで言ってないのに~・・・とかってあるでしょう。
そういうことはまったくなく、僕が思っていた、考えていた通り、記事はそのままのホントの気持ちでした。
そして滝沢記者の取材への取り組みの真剣さが、本当に伝わってきました。とても感謝しています。
さてもう師走ですね。
今年はコロナで明け暮れの日々でした。やっぱり辛かったね。(まだまだ過去形にできないけど)
いやが上にも自分を見つめる時間がたっぷりでした。
いろんな意味で精進せねば。一歩一歩踏みしめて精進せねば。
そう自分に言い聞かせるのでした。
心から笑って会える日を信じています。一緒にゆっくり歩いていきましょう。
11月17日(火)
坂田めぐみさんが10月28日(水)初のソロCDアルバム「☆えっさほいさ」
を出しました。
コロナ禍が世界を覆うなんてとても予想がたたない昨年秋頃でした。
ソロCDアルバム出したいと言ってましたね。
いろんな障害を乗り越えて、とうとう、発表にこぎつけたんだね。
本当に僕は、この彼女のソロアルバム「☆えっさほいさ」制作にはノータッチでした。
彼女の自分の作品をどういう風にCDにするのかも、テスト盤もらうまで知らなかったんだよね。
感想を一言。「バイトリーダー」って言う曲、これはなかなか良いね。
誰もが 同じ
思い通りには いかない世界
フシギで お月様を見ている
誰もが 同じ
フシギと おひさまに感謝する・・・・
そうか、そんなふうに彼女は人生をとらえる人になっていたんだね。
不思議な気分でした。僕の若い頃の仕事に対する感覚に似てるような。(笑)
そして、「ストレスフリー」の歌詞も同じシンガーソングライターとして
ちょっと妬けるくらいよくできていると思う。メロディも凄く良いと思う。
まちがえてる まちがえない
右へ左へ そのへんで たちどまる
老いも若きも 春も夏も
わんこでも にゃんこでも 誰だって たまるから
ストレスフリー ストレスフリー
さあ力をぬいて 歌おうよ 踊ろうよ
まちがえてる まちがえない 右へ左へ そのへんで たちどまる
・・・な~んていう表現は、今の世界の状況をはからずもとらえていたようにも思えるんだ。作ったのはコロナ禍のもっと前らしい。
そして犬や猫も出てくるなんて・・・。
本当に、今だね。ストレスフリーな世界を渇望する、今の歌だと思います。
このCDアルバム「☆えっさほいさ」沢山の人に聴いてもらえるといいね。
http://tower.jp/item/5077924
発売おめでとう!!
9月4日(金)
先日、リモートライブ(ZOOM)というものを初めてやりました。
リモートライブという形態には不安がいっぱいでした。
でもやってみたら・・・とっても楽しかった!!
皆様ありがとうございました。(坂田めぐみとの共演)
歌のお兄さん以前は、ライブをものすごくやってました。
年間100本以上、いやもっとかなぁ・・・。
バンドだったり、ソロだったり、サポート(バックギター)がついたり、いろいろな形態でね。
でもね、そのライブにはいつも目の前にオーディエンス(お客様)がいました。(まぁ、お客さんの多い少ないはあったけど・・。アハハ)
1970年代、地方のライブハウスでお客様が、1人って時があったよ。
「ByeーBye東京」でソロデビューするちょっと前だったかな。
セミプロ時代とは言え、これってマジなんだよ。(笑)
途中から、3人入ってきたから最後には合計4人になったけど。それでもねぇ~。(笑)
最初の一人目のお客様がとっても可哀そうだった。(笑)
ま、僕も可哀そうだったけどね。(笑)
店のオーナーもよく開演のGOを出したもんだよね。
完全に一対一ですよ。
普通にステージ出て行って「コンニチハ」って普通に挨拶したよ。
客席にポツンと一人で座ってる人に「コンニチハ~~ッ」!って声を張るのってやっぱり変でしょ?(笑)
そんなわけで?反応をみながら、曲を変えたり、MCが変化したり、ノリが変ったり・・・。
一言で言えば、その場のお客様と創り上げていく、その空間がライブだと思っています。その場に人がいないライブなんて・・・と、リモートのライブには懐疑的でした。
しかし、今、そういうことが難しい状況、どうしたらみんなと繋がっていられるか、いろんなミュージシャンが試行錯誤しながら頑張っています。
特に若いミュージシャン達の意欲はすごいものがありますよね。
どんな方法にしろ、繋がろう!という意識(何かを発信しようという意識)を持つことは素晴らしいと思います。負けられないよね。
そんなわけで、先日のリモートのライブ、楽しかったです。
ありがとうございました。
今回のリモートライブはZOOMという性質上、有難いことに双方向だったしね。新しい別のライブの在り方なのかもしれないね。
この頃日記
昔せっせとアルバイト!!の巻
2020年も半分過ぎて、コロナ禍のことや、酷い水害のことや、大袈裟ですがなんだかもう一生分の世の中の困難を見せつけられた気にもなりますが・・・いやぁ、でも、頑張りましょう!負けないで頑張りましょう!そうしましょう!!ねっ!!頑張りましょう。
と言う訳で・・・。むかしむかし・・・。
ハイ。今から45年~46年前ですよね。
1974年から1975年あたりの坂田おさむ「坂田修」ソロデビュー前。
22~23歳だもん。記憶は若干行ったり来たりしております。
歌のおにいさんになる約10年前だも~ん。
あやふやふやふや。
だってあなた、45年前あたりの記憶ってすぐにでます?・・・って威張ってるわけじゃありませんのでございます。
世の中的には、新幹線が東京~博多まで通ったり、ベトナム戦争が終わったり、およげ!たいやきくんが流行った頃かしら。
何?み~んな知らないのぉ?あ~あ。ん~も~知らないっと!!・・・・でも、ついてきてね。
そうです。
ロックバンド「宿屋の飯盛り」を脱退したあとは・・そんなすぐにはソロデビューできるわけもなく・・・。
アルバイトもちょこちょこと・・。
今日はその話ね。
交通量調査のアルバイトって知ってます?これって日払い可なんだよね。車は多いし外の空気も悪いところだったけど、でも気楽だったかも。
こう言うバイト今はもうあんまり見かけないかしらん。
交差点やら、信号機の近く、道の途中あたりで、パイプ椅子にすわって孤独そうに何やら手に金属製の計算器みたいなの持ってカチャカチャやってる人・・・。そ、人の流れやら、車の流れを調査カウントするんですよ。でも結局あれって何になるんだろ~ね。謎だった。
ところで谷啓(たにけい)さんって方ご存知?
ギャグのスーパーグループ、クレージーキャッツ(いかりや長介&ドリフターズのず~~っとずっと先輩)の一員ね。
NHK教育テレビでは「がんこちゃん」の声なんてのもやってらした。
あれはたしか高井戸の高速道路の入り口?だったかなぁ、交通量調査アルバイトしてる時でした。
車に乗った谷啓さん(多分高級外車だったと思うよ)が、車の窓をゆっくりあけて「何してるの?」って僕に聞いてきたんですよ。
子どもの頃から大好きだったあのクレージーキャッツの、あの谷啓さんがだよっ!!
あ~谷啓さんだああああ・・・。芸能人から声を掛けられるなんて~。(驚)
「ハ、ハイ。交通量調査でございます(汗)」って緊張して答えたら「ご苦労様だね。これ食べなよ」って、チューインガムを僕にくれたんだ!!おおおお。
本当は「ガチョ~~ン」とか「ビロ~~ン」って言ってほしかったけど。(笑)
あ、ガチョ~~ンって昔、谷啓さんが流行らせた流行語ね。
いまだったら何って言えばいいのかなぁ。
吉本新喜劇あたりの、ぼけたら全員でコケるかんじでしょうか。
「ガチョ~~ン!」って言った後、周りのみんなが総動員でコケるのが本当に好きだった~~。
その方がこの私にガムをくれたんです。(大喜)どんなに嬉しかったことか。
子どもの頃毎週日曜の夕方、欠かさず見ていたクレージーキャッツが出演する「シャボン玉ホリディ」ってテレビ番組(今週のギャグはこうだったなんて毎回ノートに箇条書きに書いて喜んでました)の、あの人なんですぞ!!
ああ、あのバイトをやってて本当に良かった~~。
それからね、交通量調査ってのはあんまり人と話さなくても良い仕事だったしね。
車や人のカウントとかしながらずっと頭の中ではメロディを考えていたっけ・・・。
ただ、まだ、録音できる機材(スマホのボイスメモみたいなものとか)を持っていなかったので良いメロが浮かんだ時は必死に忘れないように、ずっとそのメロを歌いつづけてアパートに戻るまでが大変だった。(笑)
知りあいに会っても挨拶したらメロを忘れるかもしれないから絶対ガン無視。
あの頃は付き合いずらい、嫌な坂田君だったと思う。
や~な奴だったぜ。(笑)
さ~て、次回は・・・。
断捨離完了。日記とは関係ないんだけど。自粛日々の写真だね。
これらギター捨てたわけじゃなく、部屋の中で断捨離中、寄せてあるだけね。紛らわしい事すんじゃないって!!
前回のこの頃日記はなんと昨年の秋2019年9月4日だったね。
あれから10か月かぁ・・・。(汗)それ以来って~・・。
いったい今のこの世界の状況(新型コロナ)を誰が予想したでありましょう。(いえだれも!)と、ま、そんな中、とある知り合いから、この頃日記をちゃんと続けてねと言われ、ハッと気が付き、まさにこう言う時だからこそ、日常を取り返そうと!!!決~~めたっと。
では、昨年9月以来のこの頃日記(昔話篇だけど)「すたあと」←ちょっと今、自分が関係してるEーテレ番組宣伝盛り込みました。番組も見てネ!・・・・では、すたあと。
1974年(昭和49年)あたりの坂田君(学校卒業したはいいけど~~時代)なんと今から46年前ですぞぃ・・・。(半世紀ちかし)歌のお兄さんの影も形もない頃の事・・・。
ロックバンド宿屋の飯盛(やどやのめしもり)を脱退(まさしく我がまま脱退だったね)したのはいいけれど、さて、自作の歌をどうやって売り込んだらいいのやら。
脱退したばかりのバンドの担当レコードディレクターに持ってくわけにもいかず、しゃあない、無い知恵を絞り、独立独歩。自分で電話することに。各レコード会社に営業活動の毎日さ。え~ぎょう??
あの頃、日本には16社くらいレコード会社ってあったんだよ。
「もしも~し、歌を聴いてほしいのですが?」
「はあ?」
「あの~ですから、歌を作ったので聴いてほしいのですが?そんでもって是非レコードをだしたく」
ガチャ!ツー・ツー・ツー。
(これ電話が切られた音ね。昔の電話はこんな音だぜぃ)
これを毎日繰り返すのですが、正しく埒が明かないとはこのこと・・・。
何か紹介がないとなかなかディレクターさんには会えないのよね。(涙)ディレクターさんて当時は偉かったんだよ。今もぉ?(笑)
何軒目かにポリドールレコードさん(今そんな名前の会社ないよね?)がなんとなくOKを・・・。
そ、な~んとなくだったね。(笑)まったくの偶然から。
キティっていう事務所さんのお知り合いが手助けしてくれたんだ。
(キティって井上陽水さんやら、当時忌野清志郎さんのRCサクセションとかがいた事務所だね)
何回かキティ事務所に通ってる間に、スタジオでデモ音源を作りましょうってなことになりました。
おお、やった~~~!!ホ~ントにあの時は嬉しかったなぁ。
デモ録りなので、スタジオで自分で演奏せよと。(そらそうだわな)打ち込みなんてない時代だよ。僕のギター一発弾き語りだけではイメージが伝わらないだろうとベースやピアノを入れなさいとディレクターさんからアドバイスを受けて・・。
スタジオに現れたのは来生(きすぎ)たかおさん(キティ)でした。はあ?
あの来生たかおさん?(シンガーソングライター、セカンドラブ中森明菜さんとか、セーラー服と機関銃とか~、ヒット曲いっぱいだね)そうデビュー前の来生たかおさんだった。
物凄く寡黙でシャイな人だったけど、お互いビートルズが好きと言うベースがあってスタジオでは楽しくデモ音源をつくりました。
東京は目黒大橋にあったポリドールレコードのでっかいスタジオでした。
嬉しかったなぁ~~。
まぁ、結局そこでは自分のソロデビューとまでは行かず、1曲シングルレコード盤に採用にされました。
アイドルの女の子のデビュー曲でした。
A面が来生さんの作品、B面が僕(坂田えいいち名の作詞)でした。
で、ちょっとしたこぼれ話・・・。
そのアイドル(?)女性は、後日、甲斐バンドの甲斐さんの奥さんになられました・・・。
作家として歌(この作品は作詞でしたが)を世に出せたことは嬉しかったけれど、やっぱり自分で作り自分で歌いたい僕でした・・・。
卒業はしたけど就職が決まってなく、同じ仲間と思っていた大学の友達は、真剣に就職活動に専念しだし、とうとう内定がどうしたこうしたとか言い出した。(汗)あせる坂田。
ないてい(内定)って何?
泣いていい???←おやじギャグすっね。
あ~あ。もう、知~らないっと。
さて、どうしたら良いのでしょ・・・坂田君の将来は????
続くぞ~~~~~。
次回も不定期ですが、なるべく早く書きますね~。
2020年半年終わるんだね・・・。すごい2020年だね。
今年の後半はどんな世界に??????
良くなっていくことを祈って・・・。
9月4日(水)
坂田おさむの過去振り返り話第4弾・・。
「卒業どうすんだぁ。就職どうすんだぁ」の巻
ロックバンド「宿屋の飯盛」には約1年半お世話になったかなぁ。
一応はコロムビアからシングルレコード2枚とLPレコード1枚出したんだよ。
しかしみなさんそもそもレコードってわかります?(笑)
レコード盤に針を乗せるとあら不思議。音が出るのですよ。(笑)
さて、バンドをやってるうちにとうとう卒業就職活動シーズンがやってまいりました。
北海道の父も母も、当然学生時代の楽しい思い出にするものと思っていた事でしょう。
普通に就職し、安泰(これもわかんないけどね)な人生を歩むであろうよと思っていたと思うな。
そんな頃バンドで北海道コンサートツアー約1月(ハイエースというレンタル車にアンプやらドラムやら機材を載せバンド全員乗り込んであの町この町大移動)をしたときも、宿泊代がなく、実家にバンドメンバー全員宿泊したりした時もそんな貧乏丸出しのバンドを見て、こんなのがプロで通用するわけないときっと思っていたことでしょう。(笑)
宿泊代がないのにツアー?そうです。ないです。キッパリ。泊まる金がないです。これって本当。
今では考えられないけれど、当時イベンターという組織だったものがあのころはまだちゃんとできていなかった時代でした。(特に北海道はね)
田舎の音楽好きの若者が会館を借りて、宣伝・切符を手売りするという、これまた超乱暴な考え方でした。宿泊先はその若者の実家とか、お寺・教会・公民館なのですわん。いわゆる雑魚寝。(笑)
考えてみりゃ車の中で寝た野宿的なこともあったし・・・。
ほとんど知名度も人気もないバンドがコンサートツアーをやるのは超無謀。こういう方法しかなかったとは思うけどね。
でもね、それだけ、音楽が本当に好きで是非コンサートをやってみたいと思う若者の純粋な気持ちは凄かった。今考えりゃかえって清々しいかもね。
そんな地方の音楽好き若者達が、今でいうコンサートのイベンターに育っていったんだと思います。
いつか、そのころのお話を小説にして出したいなぁと思っています。
さて、そんなわけで、ロックバンドの一員はいいんだけど(宿屋の飯盛はリーダーYさんの曲を歌うバンドでした)そろそろ自分の作品を世に出したいと思うようになってきた僕。ソロデビューしたいと真剣に考えるようになっていきます。
でもさ、就職どうするの?食べていけるの?はぁ?
知~らないよ~。あ~ら怖いこと。
さて、次回は・・・・。
坂田おさむの過去振り返り話第3弾・・。
「やっぱ売れないと厳しい~っ!!」の巻
1973年。大学3年。二十歳。初夏だった。セミプロ的ロックバンド「宿屋の飯盛」に入れてもらいました。(それにしても、物凄いネーミング。リーダーYさんが付けたらしいよ)
このバンドもコンテストで知り合ったんだ。
だってやっぱり、エレキギターを弾きたかったんだよ。
あの頃下宿で一人フォークギターを弾いてると、なんだか悲しくなったもんさ。(笑)
世の中的に四畳半フォークって流行りつつあった頃。「神田川」「赤ちょうちん」って歌知ってる?良い歌だけどメロディも歌詞もと~っても悲しかったんだよね。(笑)
僕は雇われ的なバンドメンバーだったけど、思っきりロックバンドでアンプを通してエレキを弾けるのは嬉しかったなぁ。エレキギター二人、ベース、ドラム(女性)、ピアノの5人編成。セミプロ的なバンドでした。そのうち、パーカッション・ボーカルという事でこれまた女性のIさんが参加。6人編成の大所帯に。そうね特徴は女性ドラムかな。
いつも問題になったのは、若干ドラムのリズムが走るのが難点ということで練習後のミーティングでは、激しくすったもんだしていました。そう学生の軽音クラブのノリと思っていただいて良いです。バンドをやったことがある人はわかるかもしれませんが、リズムが走るということはかなり致命的。それでも、当時、女性がドラムと言うのは珍しく、プロでデビューするにあたっては、なかなか良いのでは?ということでした。そのドラムの女性はとっても人間的に良い人でしたが・・・。(人間性とテクニックは関係ないけどね。)
なんせ、まだ、レコードデビュー前のセミプロ状態。メンバー全員みんな好き勝手に自分の音楽を主張したがるお年頃。毎回、練習中は結構な口喧嘩「下手くそ!」「なんだとぉ!」の超修羅場。(笑)それでも、時々、思うようなサウンドが出来た時はやっぱり嬉しかったもんです。とにかくお金がなくスタジオなんて借りられない(そもそもあの頃レンタルリハーサルスタジオってまだなかったのでは?)から、練習場所はリーダーYさんのご自宅の居間でした。大田区の御岳山。ここって超住宅街。
ご近所からはうるさがられてたと思いますよ。それでも、なんと次の年、日本最初の野外ロックコンサート、日本の「ウッドストック」って言われたワンステップフェスティバル(3DAYS)っていう大きな野外コンサートに出たんだよ。今の、フジロックフェス系の前身かな。
内田裕也さん、かまやつひろしさん、沢田研二さん、上田正樹さん、、オノヨーコさん、ミカバンドとか・・・そうそうたるロック系バンドが出てました。ただ、僕らはやっとデビューしたばかりの新米バンドだったから、リハーサル時間をほとんどもらえず、物凄く不利な音響状態でした。え?これで歌うの?演奏するの?野外なのに返しのスピーカーに自分の音がないけど?・・・・。
今でも覚えてるもん。そうとう悔しかったんだね。あ~ら可哀そね。(笑)たっぷりリハーサル時間をもらえる有名バンド。それに引き換え、舞台に上がってほとんどいきなりそのまま即演奏スタートしてねと言われる僕ら。うそでしょ!!この差別待遇。(ま、お弁当は同じだったけどさ)
この世界、「人気」や「力」をもたなくちゃだめなんだってことも嫌と言うほど味わったんだ。そう、とっても勉強になったよ。
さ~て次は、坂田君、このバンドを脱退していくお話を・・・・。